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鷹尾城(たかおじょう)は福岡県柳川市大和町鷹ノ尾に存在した日本の城(平城)。 矢部川と塩塚川によって形成された平野の西方、矢部川右岸の自然堤防上に位置する。城の範囲は東西100m、南北80mほどであったという。 == 歴史 == 田尻氏が代々居城にしていた田尻城は水や交通の便が悪いため、天文17年(1548年)に田尻親種は大友氏に願い出て鷹尾城の建設を許可された。同年に築城し。天文19年(1550年)の溝口氏・三池氏との合戦の際には親種が当城で防戦している。その後、田尻氏は大友氏の傘下から龍造寺氏の下へ転じて、天正3年(1575年)に田尻鑑種は龍造寺隆信とともに大友方の三池鎮実を攻めている。 しかし天正10年(1582年)に鑑種は龍造寺氏と不和になり、同年11月に龍造寺軍によって当城を包囲された。このため鑑種は島津氏に誼を通じ、11月25日(12月20日)と12月1日(12月25日)には籠城から脱出した使者が島津義弘に援軍を要請している。翌年7月21日(1583年9月7日)に和議がなされた後、12月10日(1584年1月22日)に鑑種は降伏して城の築地塀を破却し、間もなく城を明渡した。天正12年(1584年)9月には立花道雪ら大友軍が来攻し、龍造寺方の当城は焼払われている。その後、田尻鑑種が龍造寺方の城番として入城したが、再び島津氏へ密使を送っている。 天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州国分で当城は立花宗茂に領有され、立花鎮久が城番を任じられた。慶長6年(1601年)に田中吉政が筑後に転封されると、家老・宮川才兵衛が知行6000石で城番に任じられている。その後、元和元年(1615年)の一国一城令で廃城となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鷹尾城 (筑後国)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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